1-6 終戦と大分県の対応


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 ①終戦と松尾少尉の自決
 ②空母海鷹御紋章の焼却
 ③関係機関への引渡業務と特殊物件(旧軍財産)処理の流れ
 ④終戦処理準備と外務課の設置
 

①終戦と松尾少尉の自決


 大神基地は終戦とともに其の使命は終わりました。

 12時30分から重大放送があり、ポツダム宣言受諾・終戦を聞いた各隊員に衝撃が走りました。国を守るため自らの命を賭して訓練に励んできた隊員達にとって、悔しさと先々の懸念等で心は揺れ動いていました。血気盛んな戦闘継続派も隊内にはいたのです。

 当時各基地は指揮、管理系統の機能麻痺から大変な混乱・事件等が発生し、大分航空基地から宇垣纏中将は彗星43型11機(3機不時着)と共に最後の特攻を実施しています。

特攻直前の宇垣纏中将
特攻直前の宇垣纏中将
(Wikipediaより)

 大神基地では終戦を不満とする将兵の爆発もありませんでした。
 それは終戦の大詔が発表された直後、司令自ら隊所属の水偵で東京に飛び、終戦の真相・状況を把握して戻ってきたと言われています。
 そして、全隊員に対し軽挙妄動を戒め国家再建のために死力を尽くすことを掌握・説得したのです。

 しかし、不測の事態に備え、16日以降も発射訓練を継続したのです。
 その発射訓練も数日で終わり、8月21日には司令による詔書の奉読。呉鎮守府長官の訓示が隊長からありました。
 「戦争の終結は大御心より発せられたものにして、我々特攻員は郷里に復帰し、郷土の中堅とならん。本日1200を期し、兵器を離れ作戦を止む」

 また「陸海軍復員ニ伴フ給与等処理ニ関スル件」が閣議決定され、陸海軍人への給料・物品・帰郷の際の食料(弁当)を与える事が決められました。

 退隊命令が出ると、復員及び解隊に向けた終戦業務を着々と進めていったのでした。
 特攻隊の基地は米軍による報復を恐れ速やかに解隊するようにという通達があったと言われています。

 8月22日から24日にかけて隊内整理作業が実施され、書類などが焼却処分されました。特に軍関係書類は全て焼却するよう命令が出たと言われています。

 ●第一解員指令(機密第210110番電)
 このころ「第一解員指令(機密第210110番電)」が海軍大臣より出ています。
 一部条件はありましたが、そのほとんどが進級後に9月1日付けで予備役に編入することになりました。
 階級によって退職金も支払わられ、帰郷旅行に要する弁当の外糧食5日分以内を支給し、下士官兵に対しては
 交付品:全部
 貸与品:在庫の状況に応じ作業衣及毛布各2個以内適宜共の他各1個又は1組以内適宜
 が支給されました。
 また「帰郷者の鉄道賃は海軍省経理局にて一括払とし」、無料で乗車できることが決められていました。

 しかし、第一次では以下の要員は解員から除外されていました。
 1 航海可能の艦船乗員は当分通常航海に必要なる員数(戦闘行動を予期せず)
 2 兵器等の保管運搬要員
 3 通信連絡確保要員
 4 自存自活に必要なる要員
 また上記の他に会計経理事務処理に必要な要員は残務完了迄解員しないことも定められていました。

 ●海軍解員(復員)に関連する電文は以下の通り
 ◎軍人に関するもの
 機密第210110番電(海軍大臣) 第一解員指令
 機密第211545番電(海軍省軍務局長 海軍省経理局長) 解員に当り所要員数残留の件
 第261832番電(海軍次官)   会計経理処理上必要なる用員は残務完了迄解員せざる件
 機密第212254番電(海軍大臣) 解員に伴ふ任用進級に関する件
 機密第212320番電(海軍大臣) 海軍軍人の解員に伴ふ給与等に関する件
 機密第231613番電(海軍省人事局長 海軍省経理局長)
  軍人解員に伴ふ給与の件及雇傭人工員整理に伴ふ給与の件の適用期日に関する件
 機密第231622番電(海軍省人事局長 海軍省経理局長)
  海軍軍人の解員に伴ふ給与等の減額支給の件

 ◎軍属に関するもの
 機密第181450番電(海軍省人事局長) 嘱託者及徴用員解嘱(解除)に関する件
 機密第201234番電(海軍大臣) 雇傭人、工鉱員の整理に関する件
 機密第221255番電(海軍大臣)
  海軍の各部に勤務する雇傭人工員及動員学徒の整理に伴ふ給与等に関する件

 参考資料・解員関連資料上記の電文を記載しています。

 8月24日には本部に祀られていた回天神社を現在の住吉神社の境内に移しています。また別れを惜しんでの酒宴が設けられました。

 8月25日の早朝、松尾秀輔少尉が練兵場の東側で自決しました。「遺書」を書いた後、中央部で故郷・台湾の方角へ向かって正座し、左胸に手榴弾を抱いて爆発させ自決したのです。享年21でした。
 軍人として国を守れなかった事への強い自責の念と、生まれ故郷へ帰郷が叶わない事に対する失望感から自決という道を選択したのかもしれません。

 ※自決に関して24日の夜21時から22時の間に自決されたという「証言」もあります。
  時間的に矛盾する部分もありますが、貴重な証言ですので掲載させていただきます。

 →「証言

 同日の朝食後に予科練出身者が予定通り隊門を後にすると、連日復員が続いたのです。

 ※追記:26日の10:00に大神基地司令訓示の後、解散したという資料もあります。鋭意調査中です。

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大分県別府市における復員の様子・時期等は不明
国立国会図書館所蔵・マッカーサー図版集より
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②空母海鷹御紋章の焼却


 空母海鷹は日出国民学校付近の海岸に米軍の攻撃により座礁・沈没していましたが、戦闘力・航行力を失っていたとはいえ、依然、横須賀鎮守府所属・第四予備艦(乗員20%以下・廃艦寸前)として艦籍は残っていました。

 艦首の菊花御紋章が米軍の手に渡ることを恐れた司令は、作業隊を編成し、自ら指揮して取り外すと大神基地まで運んできました。
 御紋章の大きさは直径約2m厚さは約50cmの欅(けやき)製で白色で重ね塗りしたものの上に金色で塗装したものでした。

 そして、幹部同席でのささやかではありますが、厳粛な儀式の後に、焼却したのです。油をかけながら焼却を続け、灰になるまでに1週間要したと言われています。
 灰は基地内に丁重に埋められました。
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③関係機関への引渡業務と特殊物件(旧軍財産)処理の流れ


 連合軍より出された陸海軍一般命令第一号(昭和20年8月21日陸軍軍務課)によると、日本陸海軍は速やかに降伏・武装解除した後に陸海軍の基地位置・兵器・物資・生産拠点等の全ての一覧を作成し、連合国に報告するよう定められていました。
 これを受けて呉鎮守府では呉鎮信電令第117号(ただし詳細は不明)が出され、大神基地でも引渡目録が作成されたと考えられます。

 司令は8月25日に大分県庁へ食糧の一部を、30日・31日には官公庁・教育委員会・病院等
 (大分県庁・大神村・大神村漁業組合・大神村農業会・大神国民学校・亀川海軍病院(現独立行政法人国立病院機構 別府医療センター)・杵築中学校・日出警察署)に物資を配分しました。

 その後、昭和20年11月1日に兵器、軍需品、保管を大分県側へ移管した後、基地を閉鎖し司令・主計大尉以下20数名は、当時、大神基地のクラブとして借入れていた三菱鉱業・別府亀川温泉寮に移り住み解散事務・引渡目録の作成が行われたのです。
 そして、基地の警備を日出町の警察署・消防署に依頼し、引渡業務を実施していったのでした。

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大神突撃隊事務所位置概略図

 ※図面は大神突機密第100号の36に添付されたものです。現在の照波園バス停付近と思われます。


 終戦当時、陸海軍所属の土地・兵舎その他の施設等の国有財産は大蔵省に引き継ぐことが昭和20年8月28日の「戦争終結ニ伴フ国有財産ノ処理ニ関スル件」の中で閣議決定されました。

 しかし、昭和20年9月24日のGHQ覚書「日本軍隊より受領し、且受領すべき資材、補給品、装備品に関する件」によって、

 (イ).対象物件は、日本軍隊に属する全ての武器、弾薬、軍装備等の戦用品並びに職員等の使用に
   供された備品又はその他の財産(土地、建物等も含まれる)。
 (ロ).陸海軍財産のうち戦用とならぬものは日本政府に返還する。
 (ハ).返還資材等の受領機関に内務省を指定する。
 (ニ).内務省は受領物品の記録を保存し、その処置を明らかにせよ。

 等の詳細な指令が出されました。
 この結果、GHQから返還される財産は、内務省(地方庁)が受領し、大蔵省(財務局、管財支所または出張所)に引き渡す体制がとられたのです。引渡しまでの間の保管警備については、内務省が担当していました。
 (当時の内務省は地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道)などといった分野を管轄していました。県知事は内務官僚が就任する「勅任官」であり、内務大臣を上官としていました。)

 県内ではこの「軍需物資引受責任者」に内政部長が就任しています。

 内務省が窓口になる件は混乱を招いたらしく、10月1日から新設された大蔵省国有財産部長から大分県知事宛に送られた文書「国第2号」「国第5号」で、上記の連合軍最高司令部の通牒及び内務省調査部の設置に関連して、陸海軍所属国有財産は国内法に準じ、最終的には大蔵省に引渡すことが示されていました。

 ※補足
 昭和20年8月31日付けで作成された小豆島突撃隊引渡目録の中には「呉鎮信電令第117号に依る兵器軍需品艦艇施設等引渡目録左記の如くにあり之候」の記載がありました。

 参考資料
 ※指令第一号(附:一般命令第一号)・外務省ホームページ
 ただし昭和20年9月2日のもの。引渡目録に関する項目は第2条の部分にあたると考えられます。

 ※大分地方施設国有財産目録
 昭和20年8月頃に作成された国有財産目録。大分県内全ての軍関係施設は記載されていません。
 一部は欠損しているものと考えられます。

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④終戦処理準備と外務課の設置


 1945年8月26日GHQ要求文書(第3号別紙甲)に基づき「終戦連絡中央事務局」が設立されました。
 間接統治を行ったGHQがその占領政策を実施するための指示を行う際に、日本政府側の窓口となったもので、管掌事項は、当初、軍事・政治、賠償・経済的調整、連合軍に対する施設・通信便宜供与、俘虜抑留者に関する事項、とされていました。各地方には「終戦連絡地方事務局」が全国14箇所(京都、横浜、横須賀、札幌、仙台、佐世保、大阪、呉、鹿屋、福岡、松山、名古屋、館山、和歌山)に設置されました。
 大分県は先にあげました「軍需物資引受責任者」の交代に際し、佐世保事務局に報告を上げています。また佐世保鎮守府は九州管内と山口県及び光工廠にまで、その指示を与えているのが電報からわかります。

 大分県では連合軍との交渉窓口のために10月1日に内政部外務課を新設しました。

 昭和20年10月2日には「軍中央陸海軍ノ整理ニ関スル件」を閣議決定し、近いうちに陸海軍両省の廃止と両省をそれぞれ「第一、第ニ復員省」とし、将来的には「復員省」として統一させることが決まりました。

 昭和20年10月19日には「特殊物件処分大綱」が閣議決定され、旧日本軍が所有していた特殊物件の処理の方向性がより決められましたが、 GHQの覚書に基づき主務省の指定する諸機関に募集の上、政府の割り当てによって県に再配分することが処理する上での基本原則となっていました。

 大分県では政府から受けた特殊物件を物資別に関係各課において、更に配分計画案をたて特殊物件処理委員会(衛生材料、糧秣、兵器、施設、需品、被服、建築材料、輸送材料、その他雑品の七部会を設けた)の議を経て処理することになっていました。
 この委員会の運営を外務課の所管としたのでした。

 旧海軍側は第12航空技廠の所長で終戦事務連絡委員会の副委員長でもあった難波規矩男少将が、大分県海軍代表として大分県知事と物資引渡までの警察による監視等の折衝にあたっています。

 また旧海軍側でも引渡立合委員が決められ、大分県では以下のようになっていました。
 引渡立会委員
 大分基地 海軍大佐 佐土原 親光
 戸次基地 海軍大佐 木暮 寛
 宇佐基地 海軍中佐 糸永 冬生
 十二空廠 海軍少将 難波 規矩男
 大神突撃隊 海軍大佐 山田 盛重
 別府病院 海軍軍医大佐 山田 和昭
 呉経別支部 海軍主計少佐 太田 俊介

 ※佐伯航空隊及び佐伯防備隊の氏名は不明。
 昭和20年10月26日には「陸海軍省ノ廃止ニ関スル件」が閣議決定され、陸海軍省は11月30日に廃止することが決まりました。


第十二空廠機密第100号の29

「第十二空廠機密第100号の29」
大分県公文書館所蔵『弾薬処理一件』より。転載禁止
県内にある各海軍施設・弾薬等を県に移管する際、県内の警察引継ぐことを要請した文書。
大神基地は「日出警察署」になっていました。。

 参考資料↓↓
 第十二空廠機密第100号の29(PDFデータ)

海軍所管兵器弾薬軍需品施設等引継二関スル協定覚

「海軍所管兵器弾薬軍需品施設等引継二関スル協定覚」転載禁止
大分県公文書館所蔵『弾薬処理一件』より。
県内にある各海軍施設・弾薬等を連合軍に引き渡すまで、県に一旦引き継ぐ協定を結んだ文書。

 参考資料↓↓
 ※海軍所管兵器弾薬軍需品施設等引継二関スル協定覚(PDFデータ)

 ※第271345番電
大分県海軍代表が佐世保鎮守府に引継完了の報告をした電文



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