1-5 本土決戦準備


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 ①幻の大神震洋隊
 ②基地機能の地下壕への移動
 ③魚雷(回天)整備施設壕の計画と圧縮喞筒(ポンプ)室への改装
 ④武器・弾薬等
 ⑤食料等
 ⑥別府と大神基地

 

①幻の大神震洋隊

  
 大神基地ではいよいよ迫ってきていた本土決戦に備えて準備を進めていました。

 大神基地には追躡艇(ついしょうてい)に使用してきた「震洋」が10隻ありました。本土決戦に備えて使用できる全ての兵器をもって対抗するために、回天だけでなく震洋も使うということが昭和20年7月下旬に決まりました。
 5隻の震洋による「大神震洋隊」が結成され、人員は少尉の隊長以下、乙飛20期の二飛曹50名の中から6名を選抜し、次席指揮官の少尉候補生を入れて8名でした。数名の整備員も配属されています。

 肝心の震洋は訓練で使用されていましたので、訓練は『川棚臨時魚雷艇訓練所』(長崎県東彼杵郡川棚町大村湾)で行った隊形訓練を陸上を歩きながら行い、また指揮官だけが通船にのり他の隊員は泳いながら隊形を組むというものしかできませんでした。


特攻殉国の碑位置

旧海軍・川棚臨時魚雷艇訓練所要図
旧海軍・川棚臨時魚雷艇訓練所要図

コンクリートの柱跡
コンクリートの柱跡

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川棚臨時魚雷艇訓練所周辺航空写真
(クリックすると拡大します)

 その後、震洋改装のために弾薬及び部品調達と研修も兼ねて、指揮官と整備班長が『第三特攻隊司令部』(川棚・川棚突撃隊)に8月に入って出張しました。
 道中、大村線の小串郷駅で敵機による機銃掃射を受けるというアクシデントが遭遇しながらも、8月9日に帰隊していますが、そのまま8月15日を迎えたのです。

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②基地機能の地下壕への移動


 大神基地では地上構造物だけでなく、待避及び物資貯蔵用壕がいくつも掘られていました。

 代表的なものは受信室壕・送信室壕・各科倉庫壕(北・南)・燃料格納壕・回天格納壕・実用頭部隧道(酸素圧縮喞筒(ポンプ)室壕)・変電所です(各種壕の詳細な説明は『②-1 陸上設備』で)。

 大神基地の待避壕の収容人員は2000名と言われ、横穴式7小型13が存在していたと言われています。移行開始時期は不明ですが、地上施設を順次壕内に移行していった結果、昭和20年7月末の時点では、約40%移行終了していました。
 それに伴い、地上施設の兵舎などの一部を取り壊しています。

大神基地の施設変遷図④
大神基地の施設変遷図④(昭和20年7月末)
 ※ただし⑦各科倉庫壕(北)の形状に現状と一部差異があります。
  図面上の「×」が取り壊した施設。

 兵員の大部分は⑦各科倉庫壕(北)に移行させています。その内部は複雑に入り組んでおり、コンクリートで強化された送信室壕や、工作科の旋盤機械が設置されたり、病室や炊事場・事務室などの施設が備わっていました。

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③魚雷(回天)整備施設壕の計画と圧縮喞筒(ポンプ)室への改装


 大神基地は開隊時に回天の格納や整備のための施設壕を深江(現養殖場の北西沿い)に第二期工事で拡幅する計画を立てていました。
 大神基地主要工事概要図をあげていますが、実際は実用頭部格納壕や回天格納壕などの他に、これらの図面にはない壕が完成した他は未完成に終わりました。

昭和20年4月の計画
昭和20年5月の計画
昭和20年4月の計画
実用頭部格納壕や回天格納壕が
工事中だったことがわかります。
昭和20年5月の計画
計画の一部が縮小しています。
魚雷調整場内の施設が記載されています。

 戦後米軍によって撮影された航空写真です。当時の地形や残された兵舎等がわかります。

大神基地周辺航空写真

大神基地周辺航空写真(クリックすると拡大します)
 ※「USA-M664-1-68」(国土地理院)
  (http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=187782)を
  元に管理者JARIN作成

現養殖場の北西沿いの遠景<

⑦各科倉庫壕から見た現養殖場の北西沿いの遠景

 6月10日に呉鎮守府で打ち合わせが行われたものの、具体的な位置や工法や未決定のまま、1ヶ月が過ぎてしまいました。

 大神基地側はこのままでは戦局に間に合わないと判断し、7月8日に神社下(現住吉神社)に掘られていた実用頭部格納隧道圧縮喞筒(ポンプ)室に改装するので了承を得たいという旨の電報を呉鎮守府参謀長及び呉施設部長宛に送っています。

 そこで改装許可を得て、隊員の昼夜兼行の協力で7月25日完成を目処として、酸素圧縮喞筒(ポンプ)を2組を装備出来るように改装工事を進めました。
 現在ではコンクリート構造物の一部が残っているのみです。

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④武器・弾薬等


 大神基地の兵装は8月の若葉隊の出撃後、回天は陸上用練習基の1基を除いた15基(実用頭部は13個)・震洋が10隻(そのうち5隻で「大神震洋隊」を編成)でしたが、海上用には他にも隼艇(魚雷艇の武装を外したもの)や大発がありました。
 大神基地で記録として残っている受領した武器・弾薬は以下の通りです。

 ※銃
 ・96式25ミリ機銃…3挺
 ・同弾薬4800
 ・99式小銃…不明
 ・14年式拳銃18挺
 ・99式軽機関銃附属補用品69挺
 ・99式軽機関銃普通実包1400

 ※陸戦兵器
 ・大型手投円錐弾120
 ・小型発煙筒改五90
 ・手榴弾二型200
 ・手投円錐弾60
 ・小型地雷30
 ・手投涙弾40(催涙弾)は通称「みどり」とも言われた非致死性の兵器

 ・96式25ミリ機関銃弾薬9600発
 ・手榴弾900
 ・小型地雷150
  (展開基地用)

 と、なっていました。
 昭和20年7月24日から1週間、呉鎮守府陸戦指導官による陸戦講習(手投円錐弾・三式対戦車手榴弾?の取扱方法等か?)を受けています。

 これらの数量は終戦時の引渡目録の数量と違いが見られます。その理由としては大神基地が実戦部隊というよりも訓練部隊という位置づけだったため、若葉隊の出撃の際に展開基地(麦ケ浦等)用にその一部を輸送した事が考えられます。重火器が他に見られないのも特徴です。

 他の回天訓練基地の光基地の陸戦部隊には「竹槍」を装備した部隊もいました。こういったところからもいかに物資が欠乏していたかがわかります。そのような状況下でも隊員達は士気を落とすことなく、本土決戦に臨もうとしていたのです。


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⑤食料等


 食料は海軍大臣から食料不足を補うために自給自足体制を構築するように「国内二於ケル海軍部内戦時食料生産非常対策ノ件」の訓令が出ていました(官房需機密第55号・昭和20年3月1日)。

 大神基地内には田畑がありましたので、東京帝国大学農業部出身者等を中心に農耕班が編成され、米や野菜などの農作物や豚などの畜産も実施されました。
 また漁船や網を購入し、魚も獲っていたと言われています。

 基地開設当初は光基地から進出してくる際に、空襲で焼けてはいけないからとガダルカナルで補給作戦に使用されたゴム袋に入った米を缶詰等と一緒に「⑭各科倉庫壕」(数字は便宜上こちらでつけたもの)の中に貯蔵・保存していました。
 食料の輸送は他の物資と同時に行われ、7月末の時点で約5ヶ月分の食料が貯蔵されていました。
糧食分散格納状況(隊外)概略図.jpg
糧食分散格納状況(隊外)概略図(クリックすると拡大します)
大神突撃隊戦時日誌より作成・5月と6月のみ図面あり
7月分は説明のみで図面なし

 また保存場所は隊内でも一箇所だけではなくいくつか分散されていましたが、昭和20年7月の時点で隊外の民家3箇所に缶詰類(8日分)・乾パン(50日分)・植物油等(30日分)や大神国民学校・米や麦(130日分)に保存されていました。

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⑥別府と大神基地


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大別府市全景・昭和12年頃撮影
今日新聞社提供・転載禁止
懐かしの別府ものがたり・№1394より

 昭和20年6月12日に別府病院(亀川の海軍病院?)に入院していた上水が結核で亡くなっています。
 いつごろから入院していたのかは不明です。

 戦前の別府は陸海軍の保養地として病院等があり、開戦してしばらくすると海軍省軍務局長から、大分県別府市が潜水艦部隊の保養地の1つに指定する命令文が出されます(軍務一機密第八六号)。

 潜水艦部隊は出撃・帰還の際には別府の温泉に入っていったと言われており、大神基地にも回天搭乗員が立ち寄っていったとも言われています。

 また空母海鷹は日出町周辺で特攻標的艦艇として活動していた時には別府市から物資(骨付魚肉・骨付獣肉)の補給を受けていました。


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海鷹・貯糧品一覧



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