大神回天基地

幟について


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 ここでは当時の「幟」に書かれた文字の意味や由来について紹介しています。

 @非理法権天(ひりほうけんてん)
 A七生報国
 B南無八幡大菩薩

@非理法権天(ひりほうけんてん)

  
 「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」

 非道(物事の正しい筋道や、人としての道にはずれていること)は
 道理(物事がそうあるべきすじみち)に勝たず
 道理は法度(はっと=おきて・法律)に勝たず
 法度は権門(けんもん=位が高く権勢のある家柄)に勝たず
 権門天子(天皇のこと)に勝たず

 「天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない『天道に従って行動すべきであるということ』」という意味もあります。

 法学者の瀧川政次郎によると、もともとは儒教の影響を強く受けたもので、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理よりも越えるという意味でした。
 しかし、江戸時代に「南北朝時代に楠木正成が「非理法権天」の菊水旗を掲げた」という作られた伝承が※1、非理法権天の由来が楠木正成に由来するということで尊皇思想に結びつけられ、
 その過程で「天」は天子、すなわち天皇であり、全てに超越するという思想が一部に生まれました。太平洋戦争の際には非理法権天が皇国史観・軍国主義と密接な関係を持つスローガンの一つとして掲げられました。

 ※1【瀧川氏の推測】
  「非理法権天」は、その意味・内容からして楠木正成が旗に掲げていたとしてもおかしくはないが、
  『太平記』等にその記録がないので疑問が残る。
  実際は正成が掲げたのではなく、江戸時代の楠流軍学者たちが、
  「正成が掲げていた」ということにしたのではないか?


A七生報国

  
 「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」

 これは後醍醐天皇に仕えていた楠木正成が、足利尊氏の軍に敗れて弟と共に自刃した時に誓った
 言葉に由来します。
 「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国(南朝天皇家)に報いん」という意味です。

 「皇国に報いる」そして「七度生き延びて国に報いよ」と解釈されたことから、
 大東亜戦争(第二次大戦)期は「忠君愛国」「滅私奉公」とともに修身教育に採り入れられました。
 特に「七生報国」は武運長久にあやかって軍においてスローガンとしても多用されました。


B南無八幡大菩薩

  
 八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。
 誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。
 神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と呼ばれました。

 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。
 欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられていることから、元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神という説もあります。
 また北九州の豪族国造宇佐氏の氏神という説もあります。

 「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられています。
 八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、
 また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされています。

 農耕神あるいは海の神とされていますが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察しています。

 天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈りました。
 これによって、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることになりました。
 平安時代以降、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、全国に八幡神社が勧請されましたが、本地垂迹思想が広まると僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」と言います。

 当時の武家が守護神として八幡神を奉ずる理由として次のようなことが考えられています。
 平将門は『将門記』で、天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされています。
 八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があるとされていました。

 源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請しました。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬しました。
 また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めたと言われています。

 しかし、明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去されてしまいました。
 仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止されました。
 しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、陸海軍将兵の武神として信仰を集めました。

 Wikipediaより−一部編集−

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