大神回天基地

@−1 回天訓練基地・大神基地の建設と大神突撃隊の開隊


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 @大神海軍工廠
 A人間魚雷回天の誕生と訓練基地の建設
 B大神基地の建設・開隊
 C大神基地の組織

@大神海軍工廠


大神一帯航空写真・東より
大神一帯航空写真・東より

 海軍省は大分県速見郡旧大神村に海軍工廠建設目的のために昭和16年から17年度にかけて予算を成立させました。
 そして、旧大神村の真那井〜糸ヶ浜の周囲25haという広大な土地をを昭和16年ごろから海軍工廠建設用地として土地を買収を行い、昭和18年の暮れまでにかけて建設工事を進めていました。

 この海軍工廠は「大神海軍工廠」・「仮称O(オー)廠」とも呼ばれ、建設計画の当初目標施設は次のようなものでした。

 【主要設備】
 ・船台2(空母用1、潜水艦2隻同時建造用1)
 ・ドック3(戦艦用1、重巡用1、潜水艦2隻同時建造用1)。
 【造船能力】
 ・戦艦3年に1隻、空母3年に1隻(又は重巡2年に1隻)など。戦艦・空母1隻ずつの特定修理能力。
  これらの造船・修理用装備品の生産の他

 ・造機部…主機械タービン1700t、主機械ディーゼル10台、缶24缶、補機200台。
 ・造兵部…砲煩−中小口径砲架20基、魚雷発射管並びに空気圧搾喞筒各10基、電気−150万円分、
      航海−艦底嘴、艦底管、短艇羅針儀、光学−中小型測距儀、望遠鏡、
      架台及び托架あわせて80万円分

 この計画は戦況の悪化によって台湾の高雄に移動することが決定し、要員は大分市内の海軍工廠等に移されてしまったのです。

 ※補足
 海軍工廠が中止になった理由ですが、戦後の第二復員局にて昭和24年6月に作成された日本軍戦史「海上護衛戦」には、昭和18年の期間中に海上交通保護関係として注意すべき事項として、4月1日に高雄新庁舎竣工に付き馬公警備府は高雄に移動し、馬公には防備隊と工作部を残置するとありました。
 このことから海上交通保護強化を目的としたものと考えられます。

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A人間魚雷回天の誕生と訓練基地の建設


 昭和19年8月に黒木中尉と仁科少尉が提案した人間魚雷「回天」が正式兵器に採用されると、回天隊は呉港外倉橋島で誕生しました。
 しかし、この基地は真珠湾攻撃参加の特殊潜航艇甲標的の基地で、制限された訓練海面で、帰還を前提とする甲標的と、生還は無い体当たり特攻の回天とでは攻撃方法に相違があったため、同時に訓練するには無理がありました。
 そこで多数の搭乗員を養成する必要性から訓練基地が『大津島』『』『平生』の各地に開設されました。

回天訓練基地及び周辺地図
回天訓練基地及び周辺地図


 海軍省にも昭和19年9月13日には大森仙太郎中将を部長とする「特攻部」が設置されました。
 同部署は水中水上特攻兵器の開発・訓練・基地設備の整備等を担当しており、各基地に指示をだしていました。(「海軍特攻部規程」を参照)

 この「特攻部」は大神基地が開隊する前の昭和20年4月15日に「潜水艦部」と合併して「特兵部」が設置されました。
 また1944年10月のレイテ沖海戦の敗北後、連合艦隊が弱体化し、1945年4月、戦艦大和以下第二艦隊による沖縄突入(海上特攻)で、連合艦隊は事実上壊滅しました。
 生き残った艦船は、燃料不足でほぼ活動できなかったため、鎮守府の警備艦に格下げされてしまい、海軍艦艇の主力は、特殊潜航艇や人間魚雷「回天」などの特攻兵器からなる特別攻撃隊となりました。

本土防衛前線作戦勢要図
本土防衛前線作戦勢要図・1945年4月末まで
国立国会図書館所蔵「マッカーサー元帥レポート」より
(図をクリックすると拡大します)

 1945年5月には連合艦隊、海上護衛総司令部(海上護衛総隊)に加え、各鎮守府も指揮する『海軍総隊』が新設されました(実質・海軍の全部隊)。その長は、海軍総司令長官でした。

 当時の日本本土や朝鮮半島には4つの鎮守府と3つの警備府、そしていくつかの防備隊を配置され、その下に特攻戦隊や実戦部隊の突撃隊を擁し、本土決戦に望もうとしていました。
水上水中特攻部隊編成図
水上水中特攻部隊編成図・管理者作成

 (「海軍特兵部令」「海軍総隊司令部令」「水上水中特攻部隊終戦時編成図」を参照)

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B大神基地の建設・開隊


 海軍工廠の工事が頓挫していた大神村牧の内一帯に目を付けた呉鎮守府施設部は、大神基地建設のために昭和19年秋頃から工事を再開しました。
 約2,000名近くの人々が働き、朝鮮人労働者等の犠牲を出しながら工事が続けられ、旧制杵築中学校1・2年生や大神国民学校高等科1・2年生も昭和20年4月から、セメントに使う砂を杵築まで取りに行くなどの作業に動員されました。
 建物については清水組が、壕については銭高組がそれぞれ施工しました。
 回天そのものが軍機に触れる秘密兵器であったために、「大神海軍基地」「大分海軍施設部」という名称はありましたが、どのような基地かというのは、周辺住民にも秘密にされていました。

 (呉海軍施設部配置図旅行証明発行団体として証明書発給及証明に関する件を参照)

 1945年3月1日に第一特別基地隊を解消し、呉鎮守府第二特攻戦隊が発足すると、同日に光基地は「第二特攻戦隊光突撃隊」に大津島基地は「光突撃隊大津島分遣隊」にそれぞれ改組し、平生基地が開設、平生突撃隊を開隊しています。
 司令である山田大佐以下兵員2000名は大分初空襲3日前の昭和20年3月15日に到着しています。

 大神は昭和20年4月20日に正式に第二特攻戦隊に編入され、「大神突撃隊」と称し、4番目の回天訓練基地として開隊しました。司令である山田大佐もこの日に着任しています。兵員は2000名の構成され、開隊式は25日に実施されたのです。

・定員について

 定員については『内令定員』で定められていました。全部で1120名が定員であることが記されています。
 (上記の「2000名」と「内令定員」に定められた定員数で開きがあるのは参考資料の違いによるものです。内令定員は海軍法規に定められたものですので、こちらが前提ですが、後に兵員の変動があったのも事実です。今後も調査を継続していきます。)

 
開隊式に設置された祭壇と本部庁舎
開隊式に設置された祭壇と本部庁舎

 開設当初、訓練整備に必要な魚雷調整場などの基地主要設備はまだ完成しておらず、機材もそろっていませんでした。隊員達は他の作業員と一緒に基地整備を進めたのです。

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C大神基地の組織


 大神基地の大神突撃隊は呉鎮守府第二特攻戦隊(正式名称「特設特攻戦隊」)に属していました。
 突撃隊に関する基本的な編成は、『特設艦船部隊令』 の中で規定されていて、主要職員は次のとおりです。

 司令、副長、特攻長、特攻隊長、通信長、内務長、修補長、
 軍医長、主計長、分隊長、隊付、教頭、教官

・大神基地開設当時の幹部


 司令   海軍大佐   山田盛重(兵51期)
 副長   海軍少佐   田辺清治(兵64期)・特攻長
 先任将校 海軍大尉   宮田敬助(兵69期)・飛行長
 特攻隊長 海軍大尉   斉藤高房(兵71期)・衛兵司令
 内務長  海軍大尉   熊野力男
 通信長  海軍中尉   皆川渉
 軍医長  海軍軍医大尉 井崎太郎
 主計長  海軍主計大尉 千代賢治

 特攻隊長の海軍大尉近江誠(兵70期)は基地開隊準備のため、昭和20年3月に大神に着任。
 後に第23突撃隊特攻隊長に発令、開隊早々(5月6日)に須崎基地(第23突撃隊)転任しています。

・大神基地の回天搭乗員(兵70期以降)出身別内訳(概数)


 海軍兵学校・機関学校出身 20名
 予備学生・生徒出身    40名
 甲飛13期出身       200名 (甲種飛行予科練習生)
 乙飛20期出身       25名  (乙種飛行予科練習生)
 合計           285名


下士官搭乗員
下士官搭乗員(一部)集合写真
(「青春の賦-鳴呼大神回天隊-」より)

 (「大神基地の搭乗員・整備員について」も参照)


 大神基地の場合は回天の訓練及び研究開発を実施していた部隊であるにも関わらず、「飛行長」・「飛行士」 の配置がありました。
 これらは「特設艦船部隊令」や「内令定員」でも規定されておらず、どうしてこのような配置があったのかは不明です。
 考えられるのは甲飛13期や乙飛20期など(いわゆる「飛行予科練習生」・「予科練」)の本来なら航空機関係の隊員が、志願して回天搭乗員として訓練を受けるべく配備されていました。彼らに配慮したものなのかは、確証がないため不明です。

・大神基地の編成


 海軍の陸上部隊の編成については基本的に 科−部−班となっていました。
 一般的な特攻隊(回天隊、震洋隊)の編成は下記の通りで、特攻科に所属していました。

   特攻科┳攻撃部┳回天隊
      ┃   ┗震洋隊
      ┣特殊兵器整備部
      ┗訓練指導部

 「整備部」は現場での応急措置までを行う、いわゆる「列線整備隊」で、通常の整備は「修補科」担当が担当していました。
 修補科は、主として回天や震洋の修理(修補)を実施するほか、所掌する兵器に関連する、物品・工具などの管理・供給などを担当しました。
 特設艦船部隊令上の「修補科」は大神基地の分隊編成上では「整備科」が相当する考えられます。

・司令による隊内の分隊編成


 分隊は少なくとも、
 搭乗員分隊・整備・内務・工作・水雷・砲術・通信・衛生・主計・飛行
に分かれていました。
 それぞれの分隊が所属していた隊番号は以下の通りです。
 (第一分隊〜第三分隊の名称については調査中。「?」が後ろについているものは「内務長兼第六・七分隊長」など職を兼任した人からの推測)

 第一分隊……?
 第二分隊……?
 第三分隊……?
 第四分隊……整備科?
 第五分隊……整備科?
 第六分隊……内務?
 第七分隊……内務?
 第八分隊……砲術?
 第九分隊……通信科
 第十分隊……衛生科
 第十一分隊…主計科
 第十二分隊…飛行科

 内務科はいわば規定の各科所掌事項に属さない全てのことを担当する部署であり、民間の「総務部」・「総務課」に相当しました。

 第十二分隊の「飛行科」は大神関係資料によると、「二式水上観測機(二式水上偵察機か?)」が1機配備され、搭乗員と整備員もいましたが、戦時日誌には運用状況や整備員が記載が見られず詳細は不明です。
 この水上機は訓練部隊の連絡用や訓練海面の警戒監視用に使用されたと思われます。実際、終戦時に司令自ら東京に中央の状況確認に水上機を使用したことが記録に残っています。
 しかし、この水上機が大神突撃隊固有の装備であったのか、それとも別の基地に所属していた水偵隊の分散配置用だったかもしれず詳細は不明です。
 隊に配備されたものでしたら、「飛行科」としては規模が大きく、実際のところは特攻科に属する「飛行部」、もしくは「飛行隊」と考えられます。


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