1.開発の経緯


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遊就館に展示されている回天一型改一・Wikipediaより

 ①戦局の悪化と「人間魚雷」の発想
 ②各方面への説得とマーシャル失陥
 ③特殊緊急実験と回天の問題点
 ④「回天」命名と生産の遅延
 ⑤黒木大尉と樋口大尉の殉職

①戦局の悪化と「人間魚雷」の発想


 人間魚雷「回天」は九三式酸素魚雷三型に操縦席と操縦装置をつけた1人用の特別攻撃兵器です。

 その誕生したきっかけはミッドウェー海戦の敗北より、悪化の一途をたどっていた戦局を挽回するための策の一つとして、魚雷を人間が操縦して突入するという「人間魚雷」という発想からでした。
 この「人間魚雷」の構想を訴える声は複数上がってきていたのです。

 一つはガダルカナル島敗退後、竹間忠三大尉が軍令部に上申していますが却下されています。
 もう一つは1943年12月に伊一六五潜の水雷長入沢三輝大尉と航海長の近江誠中尉(大神基地開隊時の特攻隊長)が同様に、軍令部と連合艦隊に献策しましたが、受け入れられていません。

 このように当時の海軍首脳部が「人間魚雷」を兵器として認めなかったのは、東郷元帥の遺訓「脱出装置なきものは兵器として認めない」に基づいていたためです。
 同様の「人間魚雷」の原案となるものを甲標的の訓練基地である、大浦崎P基地(現在の広島県呉市音戸町波多見)にいた、深佐安三中尉・久良知滋中尉・久戸義郎(くどぎろう)中尉(海兵71期)の3名も発案していました。
 甲標的の訓練を受け、その欠点を知っていた彼らは甲標的で戦局を覆すことはできないと考えていました。

 彼らは当初、電気魚雷を流用した(回天十型ではないもの)ものも考えていましたが、試行錯誤の末、当時、世界で唯一日本だけが運用し、戦況の悪化によりその活躍の場をなくして、海軍工廠の倉庫に大量に眠っているだけの状態になっていた九三式酸素魚雷 を流用できないかと彼らは考えたのです。
 同じような考えをもっていた黒木博司中尉仁科関夫少尉 の両名も加わり、より具体的なものへと発展していったのです。


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②各方面への説得とマーシャル失陥


 1943年11月呉海軍工廠の篠原中佐と内藤少佐の協力を得て、設計図を完成させ、黒木中尉と仁科少尉は1944年(昭和19年)に2回にわたり、軍令部や軍務局の要員を歴訪しました。

 これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課部員の藤森康男でした。
 1943年12月28日ごろ、藤森康男より永野修身軍令部総長へ人間魚雷の内容が上申されましたが、「それはいかんな」と明言し却下しています。
 大浦基地に戻ってきた彼らは他の3人の協力を得て、「人間魚雷の戦術的戦略的用途について」という趣旨書を作成し、図面と共にP基地司令に採用を懇請しました。
 しかし、却下されたので、山田薫P基地司令を通さずに海軍部署に書類を送付したのです。
 このことは後に大問題になりました。

 送付先の一つでもあった海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課部員の藤森康男中佐は、これを受け取りましたが、当初は難色を示していました。
 しかし、連合艦隊が人間魚雷に興味を示すと、5名に話を聞きに大浦P基地まで出向いています。

 1月20日には坂本義鑑技術大佐は軍令部に呼ばれ軍令部参謀黒島亀人大佐から
 「ようやく天皇陛下からご裁可を得たので、このようなものを急ぎ設計して製作にかかってもらいたい。これには必ず脱出装置をつけてくれ。乗員は必ず帰還することができる、ということでお許しが出たのだから…」と、人間魚雷試作の指示を受けました。

 マーシャルの失陥に続き、海軍の一大拠点であったトラック島が1944年2月に米軍の攻撃によって、壊滅的な被害を被り、いよいよ戦況が逼迫してきました。

 2月26日に軍令部第一課山本善雄大佐が呉海軍工廠魚雷実験部に3基の試作を指示し、坂本義鑑技術大佐は耳塚康人技術中佐と協議して原案を作ると、3月1日に吉松中佐と竹大孝志大尉(艦政本部第二部魚雷担当部員)を呉工廠水雷部に向かわせました。
 呉では水雷部長木本伍六少将以下の幹部が会議を開き、酸素魚雷の権威であった渡辺清水技術大佐が回天開発責任者に任命されると、係官として鈴川溥技術大尉、担当技手として楠厚技手・有坂技手もそれぞれ任命されました。
 秘密裏に進めるために呉から少し離れた大入にある水雷部の魚雷調整工場に分室を設け、設計と試作を繰り返していました。

 その後、前述した大浦基地司令とのトラブルが原因で、当初から人間魚雷の発案として、最初の世話役だった深佐安三は、トラック島へ進出途中のサイパンで待機中にマリアナ沖海戦が始まり、サイパン島の6月の地上戦で玉砕。久良知滋はその後の海龍の実験搭乗要員として異動。久戸義郎中尉は甲標的に残り、3名は人間魚雷の推進から外されてしまったのです。

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③特殊緊急実験と回天の問題点


 1944年3月、軍令部は、戦局の挽回を図るための「特殊奇襲兵器の試作方針を決定し、9つの案が出されました。
 4月には「」の仮名称がつき、艦政本部では担当主務部を定め特殊緊急実験が開始されました。
 7月6日には「㊅」の試作が完成しましたが、脱出装置は未完成のため装備されませんでした。

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試作二号的(撮影場所は大津島回天基地か?)
(希少艦艇資料研究所様より)


大入魚雷遠距離発射場位置

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呉海軍工廠 大入魚雷遠距離発射場 概略図
(クリックすると拡大します。)


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大入魚雷遠距離発射場周辺航空写真
(クリックすると拡大します。)


 7月10日に特別基地隊令が制定され、甲標的の訓練・生産拠点だったP基地(大浦崎基地)を正式部隊に編成(第一特別基地隊)すると、7月25日、試作機の試験が広島県大入魚雷遠距離発射場で行われ、この時以下のの問題点が指摘されました。

 ①:魚雷改造の艇のため後進ができないこと。
 ②:旋回半径が大きすぎること。
 ③:最大80mしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を制限し水中機動の妨げになること。
 ④:脱出装置がない。

 これらに対し協議した結果

 ①②は魚雷を改造しているためやむを得ない。
 ③に関しては深深度まで潜行しないといけないということは母船である潜水艦そのものに危機が迫っているときでもあるので、母船保持の観点からこれもやむを得ない。
 ④に関しては脱出装置を付けたところで、敵地の中で生きて帰れる保障はない。必ず捕虜になってしまう。脱出装置をつけることにより性能を落としてしまう。
 という結論にいたりました。

 しかし、これらの問題点は改善されることのないまま、1944年8月1日に海軍大臣の決裁により正式に兵器として採用されたのです。
 そして、戦局が押し迫るなか、結局のところ4つの問題点は最後まで解決されることはありませんでした。
 これに合わせて回天作戦の主体となる第六艦隊は全力を上げて再建されました。

 ※第六艦隊・以下「日本軍戦史」より
 連合艦隊は米軍のマラリア諸島侵攻に対抗すべく「あ」号作戦を発動しましたが、この時、第6艦隊は偵察・奇襲攻撃を任務とした命令が下されていました。
 昭和19年5月の潜水艦部隊は以下の通りです。

 ・第六艦隊 46隻(内5隻は実在しない・41隻)
 →戦力は修理中の艦もあり全て稼動可能わけではなかったと言われています。
  その戦力の大半は「呂号」潜水艦でした。

 ・鎮守府部隊 18隻
  →旧型潜水艦が主力。作戦には不参加。
  (大神基地に回天を輸送した伊156もこちらに所属)

 第6艦隊は2ヶ所に決戦場を設定し潜水艦を配備させ、攻撃・偵察・輸送の任務に作戦参加したのは21隻以上と言われています。
 未帰還は18隻。米軍の対潜兵器(電波兵器も含む)になすすべもなかったと言われています。
 また第6艦隊司令部はサイパンにありましたが、サイパン陥落時に7月6日に第6艦隊高木武雄中将司令長官は決別電を発し、幕僚らと共に敵陣に突撃し戦死しました。
 三輪中将が7月12日に第6艦隊司令長官に就いています。
 第6艦隊は兵力再建をしながら回天作戦も計画・実行していったのです。

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④「回天」命名と生産の遅延


 黒木博司大尉の提案どおり「天を回らし戦局を覆す」「回天」と命名されました。

 回天の生産は8月末までに100基の一型を生産する計画が立てられていましたが、遅々として進みませんでした。
 最大の要因は開発者側が二型・四型の性能に注目し、その開発に躍起になっていたためとも言われています( 各回天の性能を参照)。

 そのような中でも、1944年9月半ばからは回天も徐々に数を増やしていき、計画では420基を目標に生産が続けられ、様々な困難も人員の努力で補い戦力化がはかられていきました。

 9月1日には大津島が第一特別基地隊第二部隊として開隊し、本格的な訓練を始動したのです。

 (大神基地の戦時日誌には「440号」を受領したという記述があります(回天及び船舶等の配備状況参照)。米軍の資料にも生産数は420基という記載がみられますが、それ以上の生産がされていた可能性もあります。)

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⑤黒木大尉と樋口大尉の殉職


 1944年(昭和19年)9月6日、黒木博司大尉と樋口孝大尉が搭乗した訓練用回天1号艇は、悪天候の中訓練を実施したものの、水深18mの海底の泥に突入してしまい、救助までの間に艇内の酸素がもたず、酸欠によって殉職しました。
 状況等は以下の通りです
 (黒木大尉の遺書を中心に要約。「回天特攻隊l KAITEN SPECIAL ATTACK FORCES」様を参照)。

事故発生
 9月6日17時40分に出発。蛇島に向かって針路を取り、18時に180°取舵。18時10分に潜航。
 20節で潜航、調深5mに対し実深2m、前後傾斜D2~3度、時々D4~5度となることがあった。
 当日第三次操縦訓練同乗者仁科中尉の所見で波浪大の時に、20節浅深度潜航中、俯角大となって、13m迄突込んだという報告があった。
 このことを思い出し注意しながら18時12分に浮上の命令を行なうが突然急激に傾斜・沈座。深度計は18mを示し、海底に着底、直ちに緊急停止。

応急処置
 ・調圧を10キロに設定して、5分間隔に主空気を1分間排気
 ・縦舵機操舵空気を放気。
 ・電動縦舵機を停止。
 ・海水タンク諸弁の閉鎖ヲ確認。水防眼鏡の『パッキン』部より水滴落下
 ・電灯異状なし
 ・操空圧力不明(最初)読み取りあらず

事後の経過
 ・18時45分より5分間10キロで放気。19時には停止。
 ・19時19分に操空連絡弁をやや急激に開いた際、異音と共に縦舵機凾上蓋「パッキン」から噴出。
  筒内の気圧急上昇し、耳が痛くなったので直ちに閉鎖、爾後放気不可能。
 ・19時25分に主空気を放気。操舵機凾(箱)より噴気したので短時間に停止。
  以後、放気不可能

「回天」の改善点
 ・悪天候の浅深度高速潜航の実験が必要。
 ・酸素供給のための過酸化水素水曹達の設置。
 ・事故に備え、用便器が必要(艇内の温度を上げないため)。
 ・同一の「回天」に2人が搭乗時は、酸素は7時間が限界。
 ・航外灯、応急ブローが必要。
 ・「ハッチ」啓開を試みたが開かず。
 ・駆水頭部を完備
 ・片方の「ブロー」出来ず。中水量不明。
  海水「タンク」注水及「ブロー」に大錯誤あり、至急研究対策が必要。

遺書等
 平泉・仁科を初めとする先輩・友人などへの感謝の記述のほか
 「天皇陛下万歳 大日本帝国万歳 帝国海軍万歳」、辞世の句(以下)など。

 「男子やも我が夢ならず朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
 「国を思い死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつ死してゆくらん」

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Wikipediaより

 9月6日
  19時55分 酸素の消費を抑えるために睡眠。
  22時00分 壁書
 9月7日
  4時00分 起床?
  4時05分 万歳三唱
  4時45分 君が代を斉唱、この後呼吸困難になる。
  6時現在は2名とも生存
  (樋口の遺書では6時10分まで生存)。

 黒木大尉は原因として「今回の事故は小官の指導不良にあり、何人を責めらるることなく又之を以て、㊅の訓練に聊かの支障なからんことを熱望す」とし、その最後は取り乱した様子はなかったといわれています。
 その後、「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していきました。
 またこの時、黒木大尉(殉職後、少佐)が提案した改善等は「一型改一」に反映されることになるのです。


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